ヒルサイドテラスとは

ヒルサイドテラスは、渋谷区代官山の旧山手通り沿いに連なる複合施設である。
住宅、店舗、オフィス、ギャラリー、ホールが混在し、A棟からH棟、アネックスA・B棟、ヒルサイドプラザ、ヒルサイドウェストで構成される。

この土地の地主である朝倉家と建築家・槇文彦が対話を重ねながら、1969年から1998年までの約30年をかけて段階的につくりあげた。
経済合理性を優先した高層・高密度の開発ではなく、低層でのびやかなヒューマンスケールの建築と、パブリックとプライベートが緩やかに交差する街を目指した。

その結果、ヒルサイドテラスは槇文彦の代表作として、国内外で高く評価されてきた。
1993年には、一人の建築家が長い年月をかけて一つのまちをつくり上げた点が評価され、ハーバード大学のプリンス・オブ・ウェールズ都市デザイン賞を受賞。
同じ年、槇文彦は建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受けている。
国内でも日本建築家協会25年賞、グッドデザイン賞、DOCOMOMO JAPANの「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選定された。

ここではヒルサイドテラスの第1期から第7期を通して、変わったもの・変わらなかったものを追う。

朝倉家と槇文彦の出会い

朝倉家は甲州武田家に仕えた武士の末裔である。
明治時代に朝倉徳次郎が精米業で財を成し、代官山、中目黒、恵比寿の土地一帯を買い取ったことで地主となった。

1927年、RC造の集合住宅である同潤会代官山アパートが完成し、代官山には東急東横線が開通する。
集合住宅と鉄道がもたらす新しい暮らしに刺激を受け、徳次郎の2代後の当主・朝倉誠一郎は不動産事業に本腰を入れていった。

1967年、朝倉家が慶應義塾大学出身だった縁から、教授の紹介で同じく慶應で学んだ槇文彦と知り合う。
ここから「代官山集合住宅計画」が動き出し、1969年の第1期から1998年の第7期まで続く長い歩みが始まった。

第1期から第7期までの歩み

第1期(1969年) A・B棟

計画当時、この一帯は第一種住居専用地域(現在の第一種低層住居専用地域にあたる)で、住居以外は建てられなかった。
そこで槇は行政と交渉し、一団地の建築物として申請することでショップやレストランの併設を可能にした。
ただし高さは10m以内、容積率は150%に抑える必要があり、A棟・B棟は地上3階となった。
この10mという軒高が、以降の街並みの基準になった。

A・B棟の街路側のファサードは開放的で、街と建物が連続的につながっている。
外装は打ち放しコンクリートで、機能的なボリュームで構成された、純粋なモダニズムである。

B棟の2・3階には、当時珍しかったメゾネット式の住戸が設けられた。

第2期(1973年) C棟

第2期の計画時、旧山手通りの交通量は増えていた。
そこでC棟では、奥行きのある敷地に中庭を囲む構成が採用された。
また、中庭へのアプローチには街路に面した辺からではなく、角から入る「隅入り」という日本の伝統的な建築手法が用いられた。
これにより、街と建物の動線が緩やかにつながる。

各部屋や廊下、換気塔は、その機能に沿った形のまま抽象化された造形として積み上げられ、A・B棟から続くモダニズムの様式が見られる。
一方で外装は、打ち放しコンクリートから吹き付け仕上げへと変わった。

第3期(1977年) D・E棟

D・E棟の間には猿楽塚という直径約20m、高さ約5mの円墳が残っている。
D棟はこの猿楽塚の地形に寄り添うように設計されている。

D棟の外壁には磁器質タイルが用いられた。A・B棟の打ち放しコンクリート、C棟の吹き付けとは質感が大きく異なる。
これまでの機能的で重厚なモダニズムとは打って変わり、装飾性や軽やかさを取り入れたポストモダニズムの兆しがうかがえる。

E棟は旧山手通りから少し奥にあり、住居専用棟となっている。

また、1979年にはD棟の隣に同じく槇文彦の設計でデンマーク大使館が建てられた。
外壁はサーモンピンクのタイル。
槇がほぼ同時期に手がけた慶應義塾図書館新館(1981年)にも、同系統のタイルが見られる。

第4期(1985年) アネックスA・B棟

ヒルサイドテラス・アネックスは、槇総合計画事務所出身の元倉眞琴が設計した。
設計者は替わったが、低層でヒューマンスケールという原則は引き継がれている。
アネックスA棟

アネックスB棟

第5期(1987年) ヒルサイドプラザ

ヒルサイドプラザは文化活動の拠点として構想されたホールである。
B棟とC棟の間に位置し、地下2階に12m×12mのホールを持つ。
地上から見えるのは入口部分のみ。街並みの低さを崩さずに、大きな機能を地下へ収めている。

第6期(1992年) F・G・H棟

第6期では都市計画が変更され、高さ制限が緩和され、容積率も増えた。
街路に面したF・G棟は高さ10mを超える4・5階をセットバックさせ、これまで作り上げてきた街並みに軒高を合わせている。

F・G・H棟は、ガラスやアルミパネルを用いたシャープな雰囲気になっている。
スパイラル(1985年)やTEPIA(1989年)を想起させる意匠である。
個人的には最も槇文彦らしさを感じる、好きな建築だ。

F棟
建物の角の開口部は、太さ・材質が異なる様々な線が多重に重なり合いながらも、白を基調としたミニマルな意匠がとても美しい。

G棟
H棟

第7期(1998年) ヒルサイドウェスト

ヒルサイドウェストは、ヒルサイドテラスのエリアから旧山手通りを西へ500mほど歩いた場所にある。
ファサードはアルミ被膜で覆われ、これまでで最も軽快で現代的なデザインになっている。
ヒルサイドウェストは3棟からなり、「パサージュ」というセミパブリックな通路がそれらを繋いでいる。

まとめ

第1期から第7期までの約30年、時代とともに街のあり方や建築の表現も変わっていった。
外装は、打ち放しコンクリート(A・B棟)から吹き付け(C棟)、磁器質タイル(D・E棟)、ガラスとアルミパネル(F・G・H棟)、アルミ被膜(ヒルサイドウェスト)へと移っていった。
造形も、ボリュームを組み合わせるモダニズムから、面の自律を意識したポストモダンの感覚、そして軽快でシャープな表現へと変化している。

それでも変わらなかったものがある。
街を歩く人の身体に合わせたスケールと、中庭・広場・パサージュといった公と私の共存である。

法規が許す最大限ではなく、街にとって心地よい寸法を選び続ける。
これがヒルサイドテラスが目指した街づくりであり、世界的に評価される所以だと思う。

参考文献・参考サイト

※1 槇総合計画事務所「ヒルサイドテラス I-Ⅵ」
※2 HILLSIDE TERRACE「ストーリー」
※3 東西アスファルト事業協同組合「『ヒルサイドテラス』槇文彦 — 豊かな空間構成を目指して」
※4 倉方俊輔「ポストモダニズムの歴史10:槇文彦が1977年、ヒルサイドテラスにタイルを使ったことの意味」BUNGA NET
※5 東京新聞「代官山・ヒルサイドテラス誕生の経緯は? 朝倉健吾さんが語る『ヒューマンスケール』の価値」
※6 Wikipedia「ヒルサイドテラス」
※7 シブヤ散歩新聞「渋谷歴史散歩No.7 猿楽塚と猿楽神社」
※8 槇文彦『ヒルサイドテラス/ウエストの世界』鹿島出版会、2006年
※9 『Vernacular Humanism:槇総合計画事務所 創立60周年記念展』
※10 Harvard GSD Urban Design「Hillside Terrace Complex, Tokyo, Japan(Prince of Wales Prize in Urban Design 1993)」